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偕楽園 好文亭

2010/2/20
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好文亭   観覧料190円
好文亭の名前の由来は晋武帝の故事「文を好めば則ち梅開き学を廃すれば則ち梅開かず」により、梅の別名を「好文木」といったことから命名されたといわれている。
二層三階の好文亭と北につながる奥御殿からなり、一般に全体を総称して好文亭と呼んでいる。

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好文亭案内
好文亭はその位置から建築意匠まで徳川斉昭が自ら定めたと言われている。各所に創意工夫と酒脱さを感じさせ、斉昭は、ここに文人墨客や家臣、領内の人々を集めて、詩歌や養老の会などを催した。奥御殿は、城中に出火があった時の避難場所として備えられ、藩主夫人やお付きの婦人が使用した。
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菊の間


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桃の間
菊の間と桃の間は、いずれも総板敷きで、厨(くりや・食事の準備の場所)として使用された。

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梅の間
梅の間は亭中最貴の室とされている。
斉昭公夫人の貞芳院が明治2年~6年まで「梅の間」を中心に住まわれた。(その後東京に移られた。)
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萩の間


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桜の間
萩の間、つつじの間、桜の間は藩主婦人来亭の際などお付きの婦人たちの詰所、休憩室として使用された。その他に藩主婦人や高貴の方々の座所である紅葉の間、松の間などがある。
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好文亭の額は御座の間(烈公の間)前の中庭側にあり、もともとここが好文亭の入口であったようです。

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3階の楽寿楼からの眺め
霧島つつじ、千波湖
つつじまつり、秋には萩まつりが行われる。
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田鶴鳴の梅林の梅も千波湖の湖畔の桜もまだつぼみ。
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