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偕楽園 表門~偕楽橋

偕楽園 沿革
1833年(天保4年)徳川斉昭が藩内を巡った時、南に千波湖や緑が岡をのぞみ、筑波山や大洗の海を遠望できる高台を藩内随一の景勝地として遊園を設けることを決め、自ら造園構想を練りました。天保12年から造園を行い、1842年に開園。偕楽園の名称は「孟子」の「古の人は民と偕に楽しむなり」という一節からとったものです。藩主や藩士のみならず庶民にも開放する目的を掲げて造園されており、近代の公園に近い庭園といえます。(案内より)
偕楽園 本園内には梅 約100品種 3000本 田鶴鳴梅林に約1000本
・・・梅を愛した斉昭・・・
斉昭は、偕楽園と弘道館に多くの梅を植えた由来を種梅記碑(弘道館公園内)に刻んでいる。梅は春の魁として清らかな花を咲かせ、実は梅干しにして軍用や飢饉の時の非常食となることから、実用を重んじた斉昭は梅を愛し、領内に広く植樹することを奨めました。
・・・偕楽園おすすめコース・・・
表門から竹林、吐玉泉や大杉森をぬけて好文亭へ行くコースが斉昭が意図した「陰と陽の世界」を堪能できます。と 書かれていた。
2010/2/20 好文亭からぐるっとまわって、表門から入ってみた。
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好文亭表門
本来の表門であり、黒塗りであるため「黒門」とも呼ばれている。戦災にも焼け残り開園当時の面影をそのままにしている。
好文亭表門の奥に一の木戸
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道の左 孟宗竹林   右 大杉森


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孟宗竹
竹は弓の材料として最適であることから偕楽園開園 一年後 1843年に京都嵯峨、八幡の竹を土のついたまま運び、植えたものが現在に至っている。
竹林を下って
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吐玉泉
夏なお冷たく清らかな玉を吐くような泉という意味。眼病に効くと言われていた湧水は、好文亭の茶室何陋庵の茶の湯に供用された。造園当時から枯れたことがない清水。綺麗な水が出ていた。
おすすめコースでは次は好文亭 もう行ったから梅園へ
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まだ梅園は2分咲きぐらい


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南崖の洞窟
この洞窟は今から約330年前の第2代藩主光圀時代から第9代藩主斉昭時代にかけて「神崎岩」と呼ばれた遺志を採掘した跡の一つ。洞窟は延長150mに及び、この岩は笠原水道の岩樋、好文亭の井戸筒及び吐玉泉の集水暗梁等に使用された。
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偕楽橋
橋を渡って千波湖へ
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